1932(昭和7)年
晩成社解散
広尾線鉄道全通
当時の
新聞記事
河西支庁を十勝支庁と改称
帯広飛行場完成
4月1日、北海道で7番目の市「帯広市」が誕生しました。同年9月には盛大な市制施行祝賀会が開かれ、各地では旗行列や仮装行列が練り歩くなど、街は大いに賑わいました
道東で初めて開局した帯広放送局の初放送には、帯広小学校の児童たちが記念出演しました。ラジオ店の前には初放送を聞くための人だかりができました
当時の1943(昭和18)年
帯広市制10年奉告祭
1945(昭和20)年
帯広を含む十勝の各都市空襲を受ける
第二次世界大戦の終結
大正時代の経済的な成長を背景に、銀行マンが地域に野球を伝える立役者になりました。1917(大正6)年、根室銀行帯広支店と拓殖銀行帯広支店の野球チームが結成されます。2つのチームは連合を組み「黎明団野球部」も結成され、後の帯広野球協会へとつながっていきます。
大正時代末期のゴムボール普及により、昭和初期には地域の子どもたちにも野球文化が定着。1928(昭和3)年に柏小学校野球部は全道少年野球大会で優勝、1930(昭和5)年も優勝、翌1931(昭和6)年は準優勝と強豪として知られました。
特に、2回目の優勝をした際の全道大会決勝戦は、延長24回(21回との記録もあり)に及ぶ熱戦となり、ラジオが少なかったこの時代、父兄や後援者は柏小学校に集まり、ラジオから流れる実況放送に一喜一憂しながら応援、中には、勝利を祈ってお百度詣りをする父兄もいたほどでした。
春の風が強く、少年野球が強い年は、豆の出来がよく景気が良いと言われ、雑穀屋などが後援会を組織するなど、少年野球は多くの帯広町民を湧き立たせましたが、過度な練習による過労とケガにより学習も遅れがちになるなどの弊害が出始め、少年野球大会も1932(昭和7)年の第9回大会をもって、終わりを告げることとなりました。