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帯広の140年を紐解く

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明治時代 1868(明治元年)-1912(明治45年)

広がる大地に見果てぬ夢、しかし、開拓の日々は苦悩の連続であった

開拓前の帯広

明治後期の伏古村のアイヌの人々とチセ(家)

開拓以前、北海道は蝦夷地と呼ばれ、先住民族のアイヌの人たちがこの地域の自然に適応した独自の文化を築いていました。帯広は、アイヌの人たちがこの地を"オペ"(河口がいくつにも分かれている川)と呼んでいたものが語源と言われます。幕末には松浦武四郎の調査があり、十勝川流域の原野が肥沃で農業に適していることが知られるようになりました

1869(明治2)年
明治政府が蝦夷地を「北海道」と
改め十勝国を設置した

1883(明治16)年
依田勉三率いる晩成社27名が入植

晩成社移民団

晩成社住宅

晩成社事務所

帯広の開拓は、屯田兵による官主導のものではなく、伊豆国那賀郡大沢村(現在の静岡県松崎町)出身の依田勉三が率いる開拓団「晩成社」の入植により本格化します。晩成社の社名は、「大器晩成」にちなみ、開拓には長い時間を要するであろうが、必ず成功して見せるという願いを込めて、名付けました

1894(明治27)年
河西外二郡各村戸長役場開庁

1895(明治28)年
現在の緑ヶ丘公園に
北海道集治監十勝分監(後の十勝監獄)が開庁

明治後期の十勝監獄

当時の受刑者は約1,300人収容されており、大津街道・広尾街道の道路工事や、帯広尋常小学校などの公共施設の建設に携わり、街は急激な発展を遂げました

1899(明治32)年
釧路区裁判所帯広出張所開庁

1902(明治35)年
二級町村制施行により
下帯広村外八村を廃統合して帯広町となる

帯広町外4カ村組合役場(現:大通南2丁目)

下帯広村外八村〈荊苞(ばらとう)・上帯広・伏古・幸震・売買・戸蔦・迫別(せまりべつ)・鵺抜(ぬえぬっき)〉が廃合し、帯広町と伏古村・幸震村・上帯広村・売買村の一町四村に整理され、これを組合として北海道二級町村制が施行されました。こうして、十勝で最初の町「帯広町」が誕生しました

1905(明治38)年
帯広・釧路間鉄道開通
帯広駅開設

1905(明治38)年の帯広~釧路間、1907(明治40)年の帯広~旭川間の鉄道開通を契機に、帯広は十勝の農産物集散市場・商業の中心地として繁栄し、商業都市へと成長していきました

1907(明治40)年
帯広・旭川間鉄道開通

1911(明治44)年
十勝公会堂落成
皇太子(後の大正天皇)帯広行啓

行啓歓迎の人の波

皇太子行啓は、帯広の開拓が名実ともに一段落したことの証明となり、後進地域であった帯広が先進地域に追いついたことを知るきっかけとなりました

1912(明治45)年
明治天皇の崩御

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道路より先にできた帯広小学校

 1896(明治29)年、初代帯広小学校(当時の帯広尋常小学校)が西1条南7丁目に設置されました。当時は通学路が整備されておらず、校門の前が草むらになっていることが分かります(写真上段)。1899(明治32)年には、西1条通りが道路として整備され、学校に通う児童も少しずつ増えてきました(写真下段)。

 開拓時代は子どもも貴重な働き手であり、学校を休む児童も多くいました。そんな中、初代校長である本間勘四郎先生は、「授業も大事である。学令に達した子どもをいつまでも野良に出しておくのは問題だ」と熱心に父母の説得に当たったと伝えられています。当初の児童は38名でしたが、10年後の1906(明治39)年には635名にまで増加し、その後も増加の一途をたどります。そして、1921(大正10)年には、児童数が1,600名を超え、柏小学校が市内で2校目に開校しました。

できたばかりの頃の帯広尋常小学校

道路が整備され児童が多くなってきた

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