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帯広の140年を紐解く

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大正時代 1912(大正元年)-1926(大正15年)

体裁を整えつつある街の姿、産業が芽生え、見え始めた地域の輪郭

1915(大正4)年
一級町村制施行
初代帯広町長に奥野小四郎就任

1921(大正10)年の帯広町役場(現:西3条南8丁目)

伏古村の北部を帯広町に編入し、十勝で初めての一級町村(道内52番目)に指定されました。同時に、これまで組合役場を構成していた幸震村・売買村・上帯広村を合併して、大正村が誕生しました

1919(大正8)年
北海道製糖株式会社設立(現:日本甜菜製糖株式会社)

甜菜栽培は、1880(明治13)年に伊達工場、1890(明治23)年に札幌工場が建設されましたが、成果が上がらず、北海道から甜菜糖業は一時姿を消しました。しかし、大正時代に十勝で栽培試験が進められ、十勝で充分な収量が得られることが実証できたため、甜菜の栽培が再び始められ、北海道製糖株式会社が設立されました

十勝毎日新聞創刊(当初は帯広新聞)

1931(昭和6)年新築された十勝毎日新聞社

1922(大正11)年
十勝全域大洪水

1922(大正11)年の西2条南3丁目から帯広駅を望む

8月24日から25日にかけての豪雨は降水量が213.7ミリとなり、十勝川・帯広川などは氾濫し、苦労して開拓した農地が再び荒地に戻るなど、大きな被害を受けました

双葉幼稚園新園舎落成

1925(大正14)年に撮影

1922(大正11)年に現在の東4条南10丁目に完成した双葉幼稚園の園舎は、2010(平成22)年に登録有形文化財・2017(平成29)年に重要文化財に指定され、歴史的建造物として、今もなお引き継がれています

1923(大正12)年
十勝鉄道株式会社設立

甜菜輸送のため、北海道製糖株式会社(現:日本甜菜製糖株式会社)の専用鉄道として開通しました。甜菜輸送が主目的でしたが、旅客や一般貨物も扱い、帯広町と川西・芽室の日高山脈の麓を結ぶ交通路として、南十勝開発の動脈機能も果たしました

1924(大正13)年
川西村役場落成記念

1925(大正14)年
依田勉三死去

1926(大正15)年
大正村役場落成式

1926(大正15)年
大正天皇の崩御

帯広・広尾間の乗り合い馬車開通

十勝岳大爆発

Other Events

豆から始まる地域の発展

 大正時代の中頃に帯広・十勝は大きな転換期を迎えます。鉄道が敷設され豆類・雑穀の取引が活発になり、「豆の十勝」として知られるようになります。次いで製糖工場なども建てられ、生産物の効率的な加工・移出のシステムが成立し、単なる開拓地ではなく、全国有数の農業地帯としての地位を確立します。

 こうした状況のなか、十勝の中心都市である帯広は雑穀の大集散地として発展。都市には雑穀商人が闊歩し、倉庫業・運搬業など物流関連の人々で賑わい、さらに経済成長により帯広信用組合(のちの帯広信用金庫)が設立。他にも銀行の支店設置が相次ぎ、転勤の銀行マンたちによって地域に先進都市の文化が広がります。

 都市に賃金労働者(サラリーマン)が増えてくると娯楽施設も増加します。大正時代には映画館やカフェなどの飲食店も開業し、 1917(大正6)年には花柳会の芸者や貸座敷、飲食店のつながりを総合的に管理・運営する「見番」が帯広でも発足しました。

1919(大正8)年頃の帯広駅付近の豆の野積み

1918(大正7)年頃の帯広見番開業式

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