甜菜栽培は、1880(明治13)年に伊達工場、1890(明治23)年に札幌工場が建設されましたが、成果が上がらず、北海道から甜菜糖業は一時姿を消しました。しかし、大正時代に十勝で栽培試験が進められ、十勝で充分な収量が得られることが実証できたため、甜菜の栽培が再び始められ、北海道製糖株式会社が設立されました
8月24日から25日にかけての豪雨は降水量が213.7ミリとなり、十勝川・帯広川などは氾濫し、苦労して開拓した農地が再び荒地に戻るなど、大きな被害を受けました
1926(大正15)年
大正天皇の崩御
帯広・広尾間の乗り合い馬車開通
十勝岳大爆発
大正時代の中頃に帯広・十勝は大きな転換期を迎えます。鉄道が敷設され豆類・雑穀の取引が活発になり、「豆の十勝」として知られるようになります。次いで製糖工場なども建てられ、生産物の効率的な加工・移出のシステムが成立し、単なる開拓地ではなく、全国有数の農業地帯としての地位を確立します。
こうした状況のなか、十勝の中心都市である帯広は雑穀の大集散地として発展。都市には雑穀商人が闊歩し、倉庫業・運搬業など物流関連の人々で賑わい、さらに経済成長により帯広信用組合(のちの帯広信用金庫)が設立。他にも銀行の支店設置が相次ぎ、転勤の銀行マンたちによって地域に先進都市の文化が広がります。
都市に賃金労働者(サラリーマン)が増えてくると娯楽施設も増加します。大正時代には映画館やカフェなどの飲食店も開業し、 1917(大正6)年には花柳会の芸者や貸座敷、飲食店のつながりを総合的に管理・運営する「見番」が帯広でも発足しました。